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from: 改革フォーラムさん

2010年12月17日 10時11分11秒

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「月刊ペン」1976年5月号のP28から貼り付け

「月刊ペン」1976年5月号のP28から貼り付け(貼り付け開始)http://snsi-j.org/boards/bbs.cgi?room=ikeda

「月刊ペン」1976年5月号のP28から貼り付け
(貼り付け開始)
http://snsi-j.org/boards/bbs.cgi?room=ikeda
連続特集 崩壊する創価学会

学会を滅ぼす 池田本仏のスキャンダル
室生 忠(むろお・ただし) 〈ルポ・ライター〉

ロッキード事件の児玉誉士夫と創価学会。この隠された関係をはじめ、スキャンダルにおびえ続ける学会と池田大作の内実を暴露し、創価学会崩壊の命運と末路を暗示する。

 池田が頭を下げた4人の人物

 「共・創和解」の工作について、池田とその若手側近団の敗北が決定的になった、昨年(昭和50年)9月、積極的に流された、興味あるひとつの情報があった。
 「共・創和解の不始末について、池田は4人の人物に頭を下げ、陳謝した」というものである。4人の人物としては、秋谷栄之助副会長、矢野絢也公明党書記長、中西治雄秘書室長、塚本素山・塚本総業社長の名前があげられた。はたして池田が、本当にこの4人に陳謝したか否かは定かではない。しかしこの情報は、創価学会の性格づけをめぐって、当時池田と、池田と対立した勢カと、両者のカ関係を正確に表明している。
 何故、秋谷、矢野、中西らの名前が出てくるのか、その理由についてはこの連載が繰り返し述べてきた。秋谷は反共・反日共に固執する、戸田門下生団の代表格しての、表・創価学会のリーダーであり、中西は裏・創価学会のリーダーである。さらに矢野は、秋谷、中西と連合を組み、共産党との対決路線を押し進める、公明党と学会のパイプ役である。
 緊張緩和(デタント)を志向し、日共との和解をすすめた池田とその若手門下団は、学会の支配権を賭けて彼らと闘い、彼ら戸田門下団の強固な反共意識と結束の前に敗れ去ったのである。

元学会顧問塚本素山

 では残る一人、塚本素山とは何者なのか。注意深い読者なら、その名前が最近の新聞、雑誌にたびたび登揚する名前であることに気づかれるに違いない。ロッキード事件の主役、児玉誉土夫の事務所がある、東京・銀座の塚本素山ビルの持ち主がその人物である。塚本総業本杜も、そのビルの中にある。
 塚本素山、本名塚本清。明治40年9月1日生まれ、68歳。千葉県出身、昭和10年陸士卒組で、陸軍少佐東部軍、司令官田中静萱大将の専属副官として終戦を迎えた。復員して実業界入りを果たし、昭和31年日鉄中央機械、日新興業、日新実業をまとめて塚本総業を設立し、その代表取締役に就任。
 塚本総業は、鋼材、建材、燃料、機械の販売と不動産業などを営業種目とする、非上場会杜。株式の97・3%は塚本素山の持ち株である、完全な個人会社である。全国に11店の支店を持ち、日本製鉄、住友金属、大和製鋼、久保田鉄工、石川島播磨重工などと取引を行なっている。塚本総業に加えて塚本は、塚本不動産、八盛興業各社長。日新興業、大和通運各会長。日本カーフェリー、ニューナラヤ各取締役などを兼任。押しも押されぬ、財界の顔役の一人だという。
 この塚本が、激しい反共思想の持ち主であり、日蓮正宗・創価学会の有カな信者だった。誰に聞いても即座に「塚本は腹のすわった国家主義者、筋金入りの反共主義者だ」という答えがはね返ってくる。立身三京流居合術の免許皆伝、日本刀美術館長。塚本と学会のつながりは、二代会長戸田城聖の時代にまでさかのぼるといわれ、戸田の激しい反共意識と相呼応する戸田門下団、つまり壮年部の代表的信者として位置づけられていたのだった。
 塚本の学会内における地位が、並々ならぬものであることは、かつて彼が創価学会・顧問の地位にあったことによってもうかがえる。昭和36年、第三代会長池田は「学会の基盤をより強固なものにする」という名目のもとに、顧問制度を創設し、この顧問に法華講連合会初代会長平択益吉(故人)、戸田城聖の遺児戸田喬久(三菱銀行勤務)、そして塚本の3人を就任させた。
 事実、塚本は顧問の肩書をもって、たびたび学会本部幹部会にも出席し、「池田先生につき従って信心を」と指導した。正本堂供養にも大口で参加し、「億単位の供養者、5人のうちの1人」といわれたのである。塚本を顧問にすえることによって、池田は塚本の財力を最大限に利用するとともに、彼をパイプ役として、前号で詳述した池田の経済活動、財界進出への布石作りを行なったといえるだろう。
 しかしこの顧問制度は、いつのまにか廃止されることになる。一説では、昭和44年から45年にかけて発生した「言論問題」のさなか、後述する塚本の“死の商人”性が噂され、これを恐れて池田は、顧問制度を廃止するという形で塚本との縁を切ったという。このために池田と塚本の関係は、感情的にもスムーズにいってはいないといわれるわけだが、しかし仮にそうであっても、塚本が現在でも学会壮年部の有力な信者であり、強烈な反共主義の持ち主であることに変わりはなかった。
 共・創和解について、池田が塚本に頭を下げたという話は、そのまま池田が壮年部総裁の反共意識に屈服せざるを得なかった、両者の力関係を如実に示す説話になっている。

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from: 改革フォーラムさん

2010年12月17日 10時12分17秒

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「Re:「月刊ペン」1976年5月号のP28から貼り付け」
児玉誉士夫と学会のつながり

 だが、塚本の名前に触れることは、従来一種のタブーとされてきた。何か不気味なカと雰囲気を彼は持っていたらしい。学会会員には多くの財界人がいる。戸田順之助・戸田建設社長、本間嘉平・大成建設会長、堀田光雄・富士急行社長、中川一郎・東洋キャリア会長その他。これらの財界人会員については、多くの学会系資料が触れている。しかし学会顧問の地位にまで就いたにもかかわらず、塚本総業社長・塚本素山については、その名前すら見あたらないのだ。
 彼の略歴については前述した。しかし一復員少佐が、いかにして財界の顔役にまでのしあがれたのか、謎は多い。共産党情情報通にいわせれば、彼は“死の商人”なのだという。「彼は小佐野賢治、児玉らと並ぶ日本の黒幕の一人です。現在、赤旗に連載中の『日本の黒幕、小佐野賢治』が終ったら、次は素山がやられる番になっています」という。
 さらに、共産党の対極にいる、公安関係者らも「彼は朝鮮戦争、ベトナム戦争によって財をなした。米軍から、型が古くなっただけでまだ新品同様に使える武器、車両などの軍需物資を、スクラップとして払い下げを受け、それを分解して韓国、南ベトナムなどに輸出した。もちろん現地で組みたてられ、新品同様の武器になるわけだ。彼は韓国ロビ一ストの中でも切れ者です」と語る。 これらの話の具体的な内容、活動の全容は、戦後経済裏面史として、やがて明らかにされることもあるだろう。しかしここで重要なことは、こうした活動の過程で塚本が日本の政・財界、そして社会の深層に流れるある特殊な勢力、カと提携していったことだった^今回のロッキード事件で、図らずもその一端が暴露された、児玉誉士夫との親交もそのひとつである。塚本の持っていた不気味な力、タブー性はそうした特殊な人脈によっていた。
 児玉の政・財界、右翼、暴カ団との相関図は、ロッキード事件の解明過程で多く明らかにされているし、紙面の都合もあって割愛する。しかし塚本が日本の闇のカの近くにおり、塚本を通して児玉が学会にまでつながっていたのは、隠れもない事実だった。このことが重要なのである。池田は単に財界人としての塚本を利用したのではなかった。日本の黒幕、顔役として塚本を利用し、社会の裏面にまでとどくパイプ作りの布石としたのである。
 現在では学会は、児玉と直接に深い触接をとりあう関係にまで入っている。ロッキード事件が発生する以前、昨年(昭和50年)中に、北条浩理事長が児玉邸に出入りしていたことは周知の事実である。さらに児玉が49年9月、脳血栓で倒れて以来自宅療養している間に、児玉邸の居間にあった「創価学会」の名前入りの、見舞い果物籠を目撃している人物も実在する。
 塚本素山は、単なる学会壮年部信者の象徴ではなかった。学会信者の持つ反共意識の、単なる具人化でもなかった。10年協定をめぐって、何故塚本の動きがとりざたされるのか。何故学会は児玉とつながらなければならなかったか。あるいは後述するように、児玉を通じて元日大会頭・古田重二良(故人)に、また岸信介に何故つながらなければならなかったのか。そこには学会の性格をめぐる、さらに深い、重要な意味が隠されていたのである。

 学会の“反共の砦”化構想

 まず結論を先にいおう。児玉、塚本ら日本の右翼指導者たちにとって、創価学会は日本民族の意識の、反共の砦のひとつとして位置づけられていたのである。
 児玉は日蓮宗大本山・池上本門寺の檀家総代の一人に列している。児玉の他に永田雅一・元大映社長、萩原吉太郎・北炭会長らも顔をそろえているが、日蓮宗は創価学会(日蓮正宗{しょうしゅう})とは教義的には対立する。たとえば日蓮の意義づけについても、日蓮宗が「日蓮大菩薩」と称して「菩薩」の位置づけを行なっているのに対して、創価学会は「日蓮大聖人」とよび、日蓮を最高位の「末法の本仏」とみるのである。
 児玉はその日蓮宗の檀家総代であり、塚本は学会の願問だった。宗教的信条において異るこの2人は、にもかかわらず手を結んだ。宗教的次元で提携したのではなく、反共という思想的次元において提携したのである。つまり日蓮宗、日蓮正宗を含む、日本の全宗教団を動員して、反共の砦として育成することを考えたのだった。
 国際勝共連合の黒幕の一人といわれた人物に、元日大会頭・古田重二良(故人)がいる。言論妨害事件のおり、古田は必死になって学会防衛にあたった。「古書を焼く」という名目のもとに、警察、消防署の許可をとり、学会批判書のすべてを集めて、日大グランドで焚書まで行なった。彼は右翼指導者として、学会をつぶしたくなかったのである。
 事実、彼は社団法人・宗教センター(現在は崩壊している)を設立し、執拗に反共ラインの建設を試みた。仏教系、神道系を問わず、日本国中のすべての教団、神社、仏閣を大同団結させ「共産主義との対決」にかりたてることをもくろんだのである。この構想は学会と、学会によって邪宗攻撃された他教団の間の握手がなされぬままに挫折するが、この古田の背後には児玉がいた。児玉と古田はじっ懇の間柄で、昭44年のはじめに発生した、日大脱税事件のもみ消しに、児玉が暗躍したと現在でも噂されているのもその例だ。
 つまり創価学会が団体の特性としてもつ「反共性、反日共性」は、単に学会員総体の中にある、意識の集約によってのみ生まれたものではなかったのだ。一宗教団体としての傾向、範囲を越えて、さらに広い視野から日本の政治、経済、社会を貫徹する宗教以外の価値観、つまり政治的思想によって、あらかじめ以前から学会に与えられた特性でもあったのである。この“反共の砦”としての性格作りに二代会長戸田城聖もペテン師として参加した。話は終戦直後に遡る。
 昭和21年当時、戸田は獄死した初代会長牧口常三郎に代って学会の指揮をとっていた。彼はこの頃、日本婦人新聞の社長、松崎弥造なる人物と組んで、GHQ・マ司令部から新聞用紙の割当を受ける。当時の新聞雑誌の用紙割当は、政府の用紙割当委員会が民間の窓口となり、GHQが最終的に決定することになっていた。さらにGHQ内部では、G2(参謀部第二部・作戦部)直属のCIC(軍諜報部隊)がこの種の情報担当を行なっていた。
 当時G2はGHQ内部でGS(総司令部民政局)と苛烈な闘争を展開中で、日本を強固な反共国家に育成しようと画策していた。こうした背景のもとで、CICに対して戸田は自ら反共姿勢を明らかにし、日本帰人新聞を舞台に「反共活動を行なう」という約束のもとに、多量の用紙割当の獲得に成功した。しかし戸田はこれを私し、ヤミに流してボロ儲けをするという重大事件を引き起こしたのである。もっとも、戸田が一貫して反共思想の持ち主であったのは事実であり、特に岸信介に接近を図る。「社会党と共産党をおさえていける人は、岸先生しかいない」と語ったという戸田の言葉は、そのまま学会の性格をも如実に物語っている。
 つまり塚本素山という名前は、学会内壮年部の会員の象徴であると同時に、学会外の、しかも社会の深層部分に流れる、右翼指導部の学会に対する圧カの象徴でもあったのだ。

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